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オフ・シーズンの今日この頃、テニスのツアーがオープン化してから40年の月日が流れたってことで、その歴史を振り返ってみましょう。

今回は1968年から78年あたりまでの初期のこと・・・。

テニスと言うスポーツは昔から何年にも渡って、プロとアマチュアで二分するスポーツなのよね。

長い歴史を持つウィンブルドンなども、かつてはアマチュアの大会だったの。

ローランギャロスやフォーレスト・ヒルズ(現USオープン)もアマチュアによる大会だったわ。

そんな由緒ある大会がプロも出場可能になったのが1968年で、俗に言う「オープン化」した時だったの。

徐々にテレビ放映などもされて行って、アメリカを中心に世界的にポピュラーなスポーツになって行ったわ。

それでも女子テニスはなかなかマーケットとして成り立たなかったんだって。

そんな中、1970年にはテニス愛好家でもあったフィリップモリス社の社長がビリージーン・キング婦人を筆頭とする女子テニスのスポンサーに名乗りを上げて、バージニアスリムのブランドをメイン・スポンサーにしてツアーを開催することになったの。

これが大成功を収め、女子テニスだけではなく、テニス界全体を盛り上げる結果をもたらす結果になったの。

その後、クリス・エバートとジミー・コナーズと言う、次世代の男女を代表する名選手が生まれ、二人のロマンスはテニス界はもちろん世間を賑わせたわ。

そんな中、1974年のウィンブルドンでは、二人揃ってチャンピオンになる活躍を見せたの。

1970年代半ばは、ラケットの革命も行われたの。

もっとテニスを楽しむには、ボールを当たりやすくしようとすれば良いと言う、シンプルな考えから、スイートスポットを大きくするラケットが作られたわ。

1976年にプリンスから発売さるたのは、110インチのラケットで、それまでの65インチが普通だったことを考えると、当時は驚くほど大きなラケットだったようよ!

1974年9月、17歳11か月でツアー初優勝を飾ったのがマルチナ・ナブラチロワ様。

その後、長きに渡りテニス界に大きな功績を残し、クリス・エバートとは長年のライバルとして戦い続けたのは有名なお話よね。

その後、1981年に自由を求めてアメリカへ亡命して、それ以降はアメリカ人として試合に臨んだの。

1975年のウィンブルドン決勝戦は、32歳になろうとしているベテラン、アーサー・アッシュと絶好調のジミー・コナーズ。

もちろん、名選手であったアッシュだけど、ピークを過ぎた彼が決勝へ勝ち進んだこと自体驚きで、コナーズの優勝が確実視されていたの。

でも、予想に反してアッシュが勝利を収め、更なる名声を獲得し、翌年の5月に自己最高位となる世界ランク2位にまで上り詰めて、1979年7月を最後にコートを去りました。

オープン化当時から、現在にも名を残している選手が活躍していたのね。

その後のもようは、今後のブログへと続く・・・。
