2008年12月16日
テニス史を振り返る・・・2
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12月9日の第1回に続いて2回目の今回は、1978年から1987年頃までのテニス界を振り返ってみました~。
USオープンはかつて、USナショナル・チャンピオンシップと呼ばれ、1968年からUSオープンへと名称を変えたの。会場もフォーレスト・ヒルズにあるウェストサイド・テニス・クラブで行われてたけど、大会が大きくなった70年代にその会場ではまかない切れなくなって、1978年に完成した現在の会場へと移ったんだって。
全豪オープンはかつてはあまり人気のない大会で、その寂しさから一時期はグランドスラムのステータスを失ってもいたの。しかしオーストラリア・テニス協会の活動により再びグランドスラムの1つへと復帰して、1988年に完成した会場で行われて、現在に至るわ。
当時、女子テニス界を二分する力がクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワで、他を圧倒する強さを誇り、良きライバルとして戦っていたの。エバートは常に冷静で感情を表に出さず、ベースライン・プレーヤーだったわ。一方のナブラチロワは、感情を豊かに表し攻撃的なネット・プレーを得意としていたの。
80年代はお互いに刺激し合い、ナブラチロワのストロークは上達し、エバートはジムでのトレーニングの時間を費やすようになったんだって。年間4回しかないグランドスラムだけど、この2人だけで実に38回もの優勝を成し遂げたのよ!
かつてテニスは、そのセンスや技術によって勝つスポーツだったんだけど、それを今のようなアスレチックなものにした先駆けとも言えるのがイヴァン・レンドルとナブラチロワ。レンドルはその強烈なフォアハンドを武器として男子のトップへと躍り出たの。
そしてナブラチロワと共に、テニスに筋力トレーニングを持ち込み、その体のフィットネスがメンタル・タフネスにも繋がることを証明したの。そしてラケットの進化と共に、現在のベースラインでのパワー・テニスへと進化して行ったのよね。
今も行われている男子国別対抗戦のデビスカップだけど、以前は今よりトップ選手の出場が少なかったの。スケジュールやランキングへのポイント、賞金などの問題から。そんな中、デビスカップへ出場し続けて、その大会の存続を訴えたのがジョン・マッケンローだったの。政治的背景から出場を拒否された選手がいたりもして、問題が多かったデビスカップだけど、1978年から7年間常に出場を了承し続け、大会を盛り上げて今でもデビスカップは引き継がれているのよね。
レンドルと共に活躍していたのがビヨン・ボルグ。彼はグランドストロークに多くのトップスピンをかける現在のテニス・スタイルを築き上げた先駆者。そんな彼とマッケンローの1980年のウィンブルドンの決勝戦は、第4セットはタイブレークにもつれ込み、タイブレークだけで20分も要する接戦で、そのセットをマッケンローが奪い試合はフルセットに。ファイナルセットも8-6と大接戦になりボルグが5連覇を達成したの。その試合は、今年のウィンブルドンのナダルとフェデラーの決勝に匹敵する試合だったのよ。
1984年9月8日は『スーパー・サタデー』と呼ばれた、テニス史に刻まれた1日だったの。USオープンの2週目の土曜日、そう男子準決勝2試合と女子の決勝が行われた日。CBSで放送されたその試合は、まずレンドルとパット・キャッシュの試合で、マッチ・ポイントを握られたレンドルは、トップスピン・ロブでそれをかわして、ファイナルセットのタイブレークで勝利を物にしたの。
続いて行われた女子決勝では、6度の優勝を誇るエバートで前年度覇者のナブラチロワ。この試合もフルセットにもつれる接戦で、ナブラチロワが連覇を達成したの。最後は男子準決勝のもう1試合で、マッケンローが2連覇中のコナーズと対戦し、4時間に及ぶフルセットの試合に勝利したもので、3試合全てが大接戦で、視聴率もピークを稼いでいたのよね。
センセーショナルに現れたスターもいたわ。1983年に地元フランスでの全仏オープンで優勝したヤニック・ノア。若干17歳でタイトル獲得に成功した1985年のウィンブルドン・チャンピオンのボリス・ベッカー。一躍スターダムにのし上がった2人はもちろんその後もテニス史に残る名選手となりました。
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USオープンはかつて、USナショナル・チャンピオンシップと呼ばれ、1968年からUSオープンへと名称を変えたの。会場もフォーレスト・ヒルズにあるウェストサイド・テニス・クラブで行われてたけど、大会が大きくなった70年代にその会場ではまかない切れなくなって、1978年に完成した現在の会場へと移ったんだって。
全豪オープンはかつてはあまり人気のない大会で、その寂しさから一時期はグランドスラムのステータスを失ってもいたの。しかしオーストラリア・テニス協会の活動により再びグランドスラムの1つへと復帰して、1988年に完成した会場で行われて、現在に至るわ。
当時、女子テニス界を二分する力がクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワで、他を圧倒する強さを誇り、良きライバルとして戦っていたの。エバートは常に冷静で感情を表に出さず、ベースライン・プレーヤーだったわ。一方のナブラチロワは、感情を豊かに表し攻撃的なネット・プレーを得意としていたの。
80年代はお互いに刺激し合い、ナブラチロワのストロークは上達し、エバートはジムでのトレーニングの時間を費やすようになったんだって。年間4回しかないグランドスラムだけど、この2人だけで実に38回もの優勝を成し遂げたのよ!
かつてテニスは、そのセンスや技術によって勝つスポーツだったんだけど、それを今のようなアスレチックなものにした先駆けとも言えるのがイヴァン・レンドルとナブラチロワ。レンドルはその強烈なフォアハンドを武器として男子のトップへと躍り出たの。
そしてナブラチロワと共に、テニスに筋力トレーニングを持ち込み、その体のフィットネスがメンタル・タフネスにも繋がることを証明したの。そしてラケットの進化と共に、現在のベースラインでのパワー・テニスへと進化して行ったのよね。
今も行われている男子国別対抗戦のデビスカップだけど、以前は今よりトップ選手の出場が少なかったの。スケジュールやランキングへのポイント、賞金などの問題から。そんな中、デビスカップへ出場し続けて、その大会の存続を訴えたのがジョン・マッケンローだったの。政治的背景から出場を拒否された選手がいたりもして、問題が多かったデビスカップだけど、1978年から7年間常に出場を了承し続け、大会を盛り上げて今でもデビスカップは引き継がれているのよね。
レンドルと共に活躍していたのがビヨン・ボルグ。彼はグランドストロークに多くのトップスピンをかける現在のテニス・スタイルを築き上げた先駆者。そんな彼とマッケンローの1980年のウィンブルドンの決勝戦は、第4セットはタイブレークにもつれ込み、タイブレークだけで20分も要する接戦で、そのセットをマッケンローが奪い試合はフルセットに。ファイナルセットも8-6と大接戦になりボルグが5連覇を達成したの。その試合は、今年のウィンブルドンのナダルとフェデラーの決勝に匹敵する試合だったのよ。
1984年9月8日は『スーパー・サタデー』と呼ばれた、テニス史に刻まれた1日だったの。USオープンの2週目の土曜日、そう男子準決勝2試合と女子の決勝が行われた日。CBSで放送されたその試合は、まずレンドルとパット・キャッシュの試合で、マッチ・ポイントを握られたレンドルは、トップスピン・ロブでそれをかわして、ファイナルセットのタイブレークで勝利を物にしたの。
続いて行われた女子決勝では、6度の優勝を誇るエバートで前年度覇者のナブラチロワ。この試合もフルセットにもつれる接戦で、ナブラチロワが連覇を達成したの。最後は男子準決勝のもう1試合で、マッケンローが2連覇中のコナーズと対戦し、4時間に及ぶフルセットの試合に勝利したもので、3試合全てが大接戦で、視聴率もピークを稼いでいたのよね。
センセーショナルに現れたスターもいたわ。1983年に地元フランスでの全仏オープンで優勝したヤニック・ノア。若干17歳でタイトル獲得に成功した1985年のウィンブルドン・チャンピオンのボリス・ベッカー。一躍スターダムにのし上がった2人はもちろんその後もテニス史に残る名選手となりました。