2008年03月12日
ロシア勢力のワケ
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今日は月曜日の夜にGAORAで放送された、ロシア・テニスの躍進の秘密についての番組をご紹介します。特に女子テニスの勢いはここ数年すごいことになってるわよね。アンナ・クルニコワに始まって、マリア・シャラポワが17歳でウィンブルドンでチャンピオンに輝き、メディアの注目を集めたわ。それからも、アナスタシア・ミスキナや、スベトラーナ・クズネツォワがグランドスラムのタイトルを獲得したり、世界の女子テニス界の一大勢力になって行ったの。
2002年にはランキング30位以内にロシア人は1人しかいなかったのに、2004年にはトップ10の約半分がロシア人だったの。世界のどのスポーツを見ても、こんな短期間で躍進を果たした国やスポーツは他にないの。ロシアは年間で8ヶ月も雪で覆われる冬が続いて、テニスには決して不向きな国なのは事実。平均年収も1400ドル(15万円以下)で、お金のかかるテニスをするどころじゃないのが現状。
でも、遠い昔からテニスと言うスポーツは国内で行われて、ウィンブルドンが開催された頃と同じ1870年頃からテニスは行われていたの。かの有名なトルストイも1890年代にテニスを愛好していて、モスクワ初のテニス・クラブの会長だったんだって。
でもその後の共産主義で、スポーツは片隅へと追いやられたけど、テニスを愛する人達は後を絶たず、建物の中にテニス・コートを作るほど。その後、国を代表するオリンピック選手だけは海外への遠征を認められていたけど、テニス選手にはそれがなかったの。
国内では大会が行われていたテニスだったけど、国際大会には出れなかった。それがフルシチョフが首相になって(1953年3月から1964年10月まで)イギリスを訪れた時、パーティーの席で「なぜロシア人はウィンブルドンに出場しないのか?」って聞かれ、そこで初めて国際大会の事実を知った首相は、翌年から選手をウィンブルドンへ送り込んだらしいわ。
そう語るのは、モスクワ出身でロンドン在住で現在59歳になるオルガ・モロゾワ。彼女は1974に全仏オープンとウィンブルドンで準優勝している選手。シングルスで20タイトル、ダブルスでも10タイトルに輝く、ロシア女子テニスの先駆者なの。
実際、初めて海外試合に出場したのは、アンナ・ドミトリエバと言う左利きの選手で、当時は世界でもビッグ・ニュースになったんだそうよ。現在、テレビのコメンテーターをしいる彼女が、当時を振り返って語ってるわ。
「着いた時は遠巻きに見られたわ。“ロシアにテニス選手がいるはずがない”と新聞に書かれたわ。」だって。それでもロシアは、海外で試合をする選手を数人に絞って、しかも試合数も数に制限を与えていたの。
マラット・サフィンとディナラ・サフィーナの母親で、ラウザ・イスラノワは当時ロシアではトップ10にランクしていた選手で、その後モスクワでスパルタ・クラブと言うテニス・クラブを創設して、多くの選手を輩出したの。カフェルニコフ以外のロシア人選手はほとんどがそのクラブの出身だから、クラブにいるときから熾烈な競争心が備わっていたんだって。
マルチナ・ナブラチロワ様もチェコで生まれて、国の事情でなかなか思うようにテニスができなくて、アメリカへ亡命したのは有名よね。彼女は、若かりし頃には多くのロシア人選手と試合をしたそうよ。
「今は有名な選手が多いけど、昔も優秀な選手はたくさんいたの。遠征する機会がなかっただけ。あっても2~3年だし、20歳までしか許されなった。いくら絶好調でも国が遠征を許さず、代わりに16歳くらいの選手が選ばれたの。可能性を抹殺したのは共産主義だった。私は国を出たけど、ロシア人には難しかった。祖国に残した家族にも危害が及ぶから。たくさんの選手を遠征に出すと、選手以上に護衛の数がいったし、共産主義の低迷と選手の亡命を恐れたし、経済的な問題も大きかった。」
しかしその後、経済が開放されると、選手もどんどん自由になっていって、出場できる試合数も徐々に増えていったの。世界で成功をおさめたモロゾワと、ダブルスも組んだりしたクリス・エバートが彼女のことをこんな風に語っていたわ。「彼女は練習熱心で、カリスマ性も持っていたわ。正直者で、良く笑っていて個性的だった。ロシア人のイメージを打ち砕いた選手だったわ。」
でも、一大事件が起きたの。南アフリカでの試合をロシアがボイコットしたことで、国際テニス連盟はロシアに1976年から8年間の国際試合出場停止処分を下したの。状況が改善されたのはモスクワ・オリンピックが始まってからだったんだって。経済的に厳しかったロシアは、その後も選手が獲得した賞金を国へ納めることを義務付けることを止めなかったの。
モロゾワは、獲得した賞金を国の役員へ渡したとき「これでバスケットボール選手の遠征費ができた」って言われたんだって!彼女は「お役に立てて光栄です。」と言うしかなかったそうよ。つまり、国は資金稼ぎのために選手を海外へ送り込んでいたわけ。
それを打ち砕いたのが、ナターシャ・ズベレワだったって知ってた?ダブルスの名手として2002年まで現役を続けていた彼女は、1988年若干17歳で全仏オープンの決勝戦の舞台に立って、シュテフィ・グラーフに6-0,6-0で敗れたのは有名だけど、そこで彼女はこうスピーチしたの。
「試合では一生懸命頑張りたい。だからロシア・テニス協会にお願いがあります。あることを変えて欲しいのです。何が言いたいか、お分かりでしょう。つまり・・・」(インタビュアーが助けの手を出して)“獲得した賞金を選手に払ってほしいって言うことだね?”「そうです、その通りです。この2万4千ドルのチェックは自分にとってはただの紙切れです。本当のお金は見たことがないんです。」“この模様をゴルバチョフが見ていて、賞金をもらえるといいね”とインタビュアーが締めくくったの。
それ以降、賞金は選手の手に渡り、才能のある子供達の親は「お金が稼ぎたかったらテニスをさせましょう」って言い始めたの。今のトップ選手は当時3~6歳で、ちょうどその頃テニスを始めた世代。今でも練習状況はそれほど変わっていないのが現状で、コートの数が少なくて、練習する時間も限られているんだって。だからこそ余計に集中して練習ができるのね!
それに良いコーチが揃っているんだとも言われているわ。それは良い選手を育てるのではなく、良い選手を発掘するコーチが揃っているんだとか。そのお陰で、これだけの選手が生まれ、今のジュニアもロシア勢力の勢いは止まらないの。強さと美貌を兼ね備えたロシア人女子選手の活躍は、永遠に続く様子ね・・・。
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2002年にはランキング30位以内にロシア人は1人しかいなかったのに、2004年にはトップ10の約半分がロシア人だったの。世界のどのスポーツを見ても、こんな短期間で躍進を果たした国やスポーツは他にないの。ロシアは年間で8ヶ月も雪で覆われる冬が続いて、テニスには決して不向きな国なのは事実。平均年収も1400ドル(15万円以下)で、お金のかかるテニスをするどころじゃないのが現状。
でも、遠い昔からテニスと言うスポーツは国内で行われて、ウィンブルドンが開催された頃と同じ1870年頃からテニスは行われていたの。かの有名なトルストイも1890年代にテニスを愛好していて、モスクワ初のテニス・クラブの会長だったんだって。
でもその後の共産主義で、スポーツは片隅へと追いやられたけど、テニスを愛する人達は後を絶たず、建物の中にテニス・コートを作るほど。その後、国を代表するオリンピック選手だけは海外への遠征を認められていたけど、テニス選手にはそれがなかったの。
国内では大会が行われていたテニスだったけど、国際大会には出れなかった。それがフルシチョフが首相になって(1953年3月から1964年10月まで)イギリスを訪れた時、パーティーの席で「なぜロシア人はウィンブルドンに出場しないのか?」って聞かれ、そこで初めて国際大会の事実を知った首相は、翌年から選手をウィンブルドンへ送り込んだらしいわ。
そう語るのは、モスクワ出身でロンドン在住で現在59歳になるオルガ・モロゾワ。彼女は1974に全仏オープンとウィンブルドンで準優勝している選手。シングルスで20タイトル、ダブルスでも10タイトルに輝く、ロシア女子テニスの先駆者なの。
実際、初めて海外試合に出場したのは、アンナ・ドミトリエバと言う左利きの選手で、当時は世界でもビッグ・ニュースになったんだそうよ。現在、テレビのコメンテーターをしいる彼女が、当時を振り返って語ってるわ。
「着いた時は遠巻きに見られたわ。“ロシアにテニス選手がいるはずがない”と新聞に書かれたわ。」だって。それでもロシアは、海外で試合をする選手を数人に絞って、しかも試合数も数に制限を与えていたの。
マラット・サフィンとディナラ・サフィーナの母親で、ラウザ・イスラノワは当時ロシアではトップ10にランクしていた選手で、その後モスクワでスパルタ・クラブと言うテニス・クラブを創設して、多くの選手を輩出したの。カフェルニコフ以外のロシア人選手はほとんどがそのクラブの出身だから、クラブにいるときから熾烈な競争心が備わっていたんだって。
マルチナ・ナブラチロワ様もチェコで生まれて、国の事情でなかなか思うようにテニスができなくて、アメリカへ亡命したのは有名よね。彼女は、若かりし頃には多くのロシア人選手と試合をしたそうよ。
「今は有名な選手が多いけど、昔も優秀な選手はたくさんいたの。遠征する機会がなかっただけ。あっても2~3年だし、20歳までしか許されなった。いくら絶好調でも国が遠征を許さず、代わりに16歳くらいの選手が選ばれたの。可能性を抹殺したのは共産主義だった。私は国を出たけど、ロシア人には難しかった。祖国に残した家族にも危害が及ぶから。たくさんの選手を遠征に出すと、選手以上に護衛の数がいったし、共産主義の低迷と選手の亡命を恐れたし、経済的な問題も大きかった。」
しかしその後、経済が開放されると、選手もどんどん自由になっていって、出場できる試合数も徐々に増えていったの。世界で成功をおさめたモロゾワと、ダブルスも組んだりしたクリス・エバートが彼女のことをこんな風に語っていたわ。「彼女は練習熱心で、カリスマ性も持っていたわ。正直者で、良く笑っていて個性的だった。ロシア人のイメージを打ち砕いた選手だったわ。」
でも、一大事件が起きたの。南アフリカでの試合をロシアがボイコットしたことで、国際テニス連盟はロシアに1976年から8年間の国際試合出場停止処分を下したの。状況が改善されたのはモスクワ・オリンピックが始まってからだったんだって。経済的に厳しかったロシアは、その後も選手が獲得した賞金を国へ納めることを義務付けることを止めなかったの。
モロゾワは、獲得した賞金を国の役員へ渡したとき「これでバスケットボール選手の遠征費ができた」って言われたんだって!彼女は「お役に立てて光栄です。」と言うしかなかったそうよ。つまり、国は資金稼ぎのために選手を海外へ送り込んでいたわけ。
それを打ち砕いたのが、ナターシャ・ズベレワだったって知ってた?ダブルスの名手として2002年まで現役を続けていた彼女は、1988年若干17歳で全仏オープンの決勝戦の舞台に立って、シュテフィ・グラーフに6-0,6-0で敗れたのは有名だけど、そこで彼女はこうスピーチしたの。
「試合では一生懸命頑張りたい。だからロシア・テニス協会にお願いがあります。あることを変えて欲しいのです。何が言いたいか、お分かりでしょう。つまり・・・」(インタビュアーが助けの手を出して)“獲得した賞金を選手に払ってほしいって言うことだね?”「そうです、その通りです。この2万4千ドルのチェックは自分にとってはただの紙切れです。本当のお金は見たことがないんです。」“この模様をゴルバチョフが見ていて、賞金をもらえるといいね”とインタビュアーが締めくくったの。
それ以降、賞金は選手の手に渡り、才能のある子供達の親は「お金が稼ぎたかったらテニスをさせましょう」って言い始めたの。今のトップ選手は当時3~6歳で、ちょうどその頃テニスを始めた世代。今でも練習状況はそれほど変わっていないのが現状で、コートの数が少なくて、練習する時間も限られているんだって。だからこそ余計に集中して練習ができるのね!
それに良いコーチが揃っているんだとも言われているわ。それは良い選手を育てるのではなく、良い選手を発掘するコーチが揃っているんだとか。そのお陰で、これだけの選手が生まれ、今のジュニアもロシア勢力の勢いは止まらないの。強さと美貌を兼ね備えたロシア人女子選手の活躍は、永遠に続く様子ね・・・。