2008年10月20日
ガンを克服して
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今週開催される、オーストラリアはリンツの大会に、7月4日に紹介した白血病から生還したクレメンシッツ姉妹のサンドラがダブルスで出場してますね。勝ち上がると、順当に行くと、2回戦で杉山&シュレボトニック組と対戦になります。そんなサンドラ・クレメンシッツと同じく、癌から復帰した選手をご紹介しましょう!
男子ダブルス・プレーヤーで今月34歳になったルーカス・アーノルド・カールなの。彼は両親もテニス選手でお兄さんもATPでプレーしていたテニス一家に生まれたの。そんな環境から、物心が付いた時にはラケットを握り、彼の人生には常にテニスがあって、毎週何時間もお母さんがテニスの練習に付き合ってくれたんだって。
そんな彼はジュニア時代から頭角を現し、1998年にはシングル最高77位になり、2004年にはダブルス・ランキングも最高の21位に辿り着いたの。その頃から、ダブルスを中心にツアーを回っていたんだけど、そんな順風満帆な彼の人生に最初の暗い影が指し始めたの。
それは1999年に結婚した、愛する妻、ヤニーナとの別れだったの。同時に、当時3歳だった息子のイグナチオとも別れざるを得なくなってしまったの。でも神様はそんな失意の底にいた彼に更なる宿命に背負わせたの。体の異変に気付いた彼は、主治医のもとを訪れたの。それはデビス・カップのチームメイトでもあり、ダブルスのパートナーのダビド・ナルバンディアンと2006年のウィンブルドンへ出発する前日だったの。
翌日、出発の数時間前に、ルーカスは主治医から癌の可能性が高いことを知らされたわ。それでも彼は、ナルバンディアと共にイギリスへ向かい、家族にはその事を秘密にした。それは当時、病に伏せていたお母さんに心配かけたくなかったからなの。
8月にツアーから戻って精密検査を受けた結果、やはり腫瘍は悪性のもので、正式に癌だと診断されたの。すぐに摘出手術を受けた彼は、その後も化学治療を受けることを薦められたけど、それを拒否して、2週間後にUSオープンへと旅立ったわ。
そんな状況の中、妻のヤニーナは息子を連れてルーカスの元へ戻ってきたの。でも、そんな幸せは、癌の再発と言う事実に、またもや打ち消されてしまったの。今回は、化学治療を必須とされ、テニスから離れることを余儀なくされてしまった。
家族が戻ったお蔭で、彼の「生きたい」と言う思いは強くなったわ。加えて、デビス・カップのメンバーや、たくさんの選手やファンからの応援は、多大な励みになって、治療は成功していったの。そして、またツアーを回りたいって思うようになったんだって。
そして2007年8月にツアーへ戻ることにした彼だけど、もちろんランキングは持ってないため、また一からのスタートにチャレンジ。フューチャーズ大会からチャレンジャー大会と回り、やっとグランプリ大会にも出場できるようになって、彼の生活は癌に犯される前のものに近付いていったの。
でもなぜか、彼にはまた1つ悲しい出来事が起きてしまう。それは小さい頃からいつも練習に付き合ってくれた、お母さんが1月に亡くなってしまったの。子供の頃、ブエノスアイレス近郊の大会には、可能な限り連れて行き、彼に技術は元より経験も積ませてくれて、立派なプロに育て上げてくれた母の死だった。
治療が続く中、しばらくはその悲しみから抜け出せずにいた彼は、コート上でもイライラを募らせ、時には審判に噛みついたりもしたんだとか。でも治療も終わり、平常心を取り戻した彼は、今年のウィンブルドン前に、お母さんの名字だった“カール”を正式に自分の名前に付け、ルーカス・アーノルド・カールとしてウィンブルドンへ臨みました。
迎えた1回戦は、ルーカスのサービスで試合が始まり、ボールを握り準備を終えたルーカスへ、主審の声が会場に響き渡ったの。「アーノルド・“カール”、トゥ・サーブ」。天国のお母さんにも、きっと届いたはずよね!
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今週開催される、オーストラリアはリンツの大会に、7月4日に紹介した白血病から生還したクレメンシッツ姉妹のサンドラがダブルスで出場してますね。勝ち上がると、順当に行くと、2回戦で杉山&シュレボトニック組と対戦になります。そんなサンドラ・クレメンシッツと同じく、癌から復帰した選手をご紹介しましょう!
男子ダブルス・プレーヤーで今月34歳になったルーカス・アーノルド・カールなの。彼は両親もテニス選手でお兄さんもATPでプレーしていたテニス一家に生まれたの。そんな環境から、物心が付いた時にはラケットを握り、彼の人生には常にテニスがあって、毎週何時間もお母さんがテニスの練習に付き合ってくれたんだって。
そんな彼はジュニア時代から頭角を現し、1998年にはシングル最高77位になり、2004年にはダブルス・ランキングも最高の21位に辿り着いたの。その頃から、ダブルスを中心にツアーを回っていたんだけど、そんな順風満帆な彼の人生に最初の暗い影が指し始めたの。
それは1999年に結婚した、愛する妻、ヤニーナとの別れだったの。同時に、当時3歳だった息子のイグナチオとも別れざるを得なくなってしまったの。でも神様はそんな失意の底にいた彼に更なる宿命に背負わせたの。体の異変に気付いた彼は、主治医のもとを訪れたの。それはデビス・カップのチームメイトでもあり、ダブルスのパートナーのダビド・ナルバンディアンと2006年のウィンブルドンへ出発する前日だったの。
翌日、出発の数時間前に、ルーカスは主治医から癌の可能性が高いことを知らされたわ。それでも彼は、ナルバンディアと共にイギリスへ向かい、家族にはその事を秘密にした。それは当時、病に伏せていたお母さんに心配かけたくなかったからなの。
8月にツアーから戻って精密検査を受けた結果、やはり腫瘍は悪性のもので、正式に癌だと診断されたの。すぐに摘出手術を受けた彼は、その後も化学治療を受けることを薦められたけど、それを拒否して、2週間後にUSオープンへと旅立ったわ。
そんな状況の中、妻のヤニーナは息子を連れてルーカスの元へ戻ってきたの。でも、そんな幸せは、癌の再発と言う事実に、またもや打ち消されてしまったの。今回は、化学治療を必須とされ、テニスから離れることを余儀なくされてしまった。
家族が戻ったお蔭で、彼の「生きたい」と言う思いは強くなったわ。加えて、デビス・カップのメンバーや、たくさんの選手やファンからの応援は、多大な励みになって、治療は成功していったの。そして、またツアーを回りたいって思うようになったんだって。
そして2007年8月にツアーへ戻ることにした彼だけど、もちろんランキングは持ってないため、また一からのスタートにチャレンジ。フューチャーズ大会からチャレンジャー大会と回り、やっとグランプリ大会にも出場できるようになって、彼の生活は癌に犯される前のものに近付いていったの。
でもなぜか、彼にはまた1つ悲しい出来事が起きてしまう。それは小さい頃からいつも練習に付き合ってくれた、お母さんが1月に亡くなってしまったの。子供の頃、ブエノスアイレス近郊の大会には、可能な限り連れて行き、彼に技術は元より経験も積ませてくれて、立派なプロに育て上げてくれた母の死だった。
治療が続く中、しばらくはその悲しみから抜け出せずにいた彼は、コート上でもイライラを募らせ、時には審判に噛みついたりもしたんだとか。でも治療も終わり、平常心を取り戻した彼は、今年のウィンブルドン前に、お母さんの名字だった“カール”を正式に自分の名前に付け、ルーカス・アーノルド・カールとしてウィンブルドンへ臨みました。
迎えた1回戦は、ルーカスのサービスで試合が始まり、ボールを握り準備を終えたルーカスへ、主審の声が会場に響き渡ったの。「アーノルド・“カール”、トゥ・サーブ」。天国のお母さんにも、きっと届いたはずよね!
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